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中年よ、大志を抱け!

中年よ、大志を抱け!

永遠の愛を誓う季節

『心はミュージシャン!』~永遠の愛を誓う季節~

1、「ただよいの日々」

結婚するから演奏をしてくれ・・・そう頼んできたのは、僕やSよりも2学年上のサークルの先輩で、彼と同級生で、やはり僕らのサークルの先輩だった人と結婚することになり、披露宴で、その先輩がサークルにいた頃のバンドのいくつかに演奏してもらいたい、と言う事でした。

僕は、その先輩がボーカルをするバンドでキーボードを弾いていましたし、Sはベースを弾いていましたので呼ばれたわけです。

「・・・と言うわけで、すまんY、時間的にあれもこれもは無理だから、先輩の結婚まではそっちの練習に専念するわ」と僕とSはYに言い、僕らのバンドはお預け状態になりました。

こうして僕とSは、なつかしい先輩達と時間をやりくりして数回練習し、秋に行われた披露宴では3曲ほど演奏しました。

披露宴で久しぶりに同級生や先輩、後輩達に会い、学生時代の気分に少しだけ戻ったような気がしましたが、僕は卒業してから3年半、同級生は4年半経っていたので、同級生の中には部下も出来てバリバリ仕事をしているというのもいるわけです。

そういう姿を見ながら、俺って、いつまでもモラトリアムだな、などとちょっとしんみり思ってしまいました。

先輩の結婚式が終わった直後、僕にとっても変化が訪れました。同じ工場で働いていた人が、僕が鍼灸師を目指してお金をためていると言うと、「そりゃお金がかかるでしょう?時間もかかるし…どうですか?私は整体の学校に行ってるんですが、あなたも行きません?」と言うんです。

その人の話しによると、土、日とか、平日の夜とか、都合のいい日に授業を取って必要単位を取得すれば、その学校の傘下の整体治療院を開く事が出来、それにはある程度お金も日数もかかるけど、今から鍼灸学校に行くよりははるかに安く、また、早い、という事でした。

う~~~ん、考えましたね。たしかにあと1年ちょっと工場で働いて、試験勉強して、鍼灸学校に受かっても、その後4年くらいは学校に行かなきゃならないわけですから、それに比べれば、整体師になる方が、早いのは早いわけです。

そこで整体や、整体業界に関する本や雑誌を読み漁り、その結果、そうしようと決めました。

それで早速入学したわけです。貯金はある程度ありましたが、収入がないとなるとどうもならないんで、しばらくは工場勤めを続けたまま休みの日に学校に行きました。

学校に行って見ると若い人から結構なお年寄りまで、老若男女が熱心に勉強していて、なかなか面白いわけです。

それでそのうち、集中して勉強するために時間が欲しくなってきました。そう思ってた頃、同じ学校に通う、僕の実家の町に住む中年の方から、今、自分の知り合いで、昔から左官をやってる70才の人がいるが、人手不足で困っているから、そこで働きながら勉強したら、時間も今よりは出来るし、万が一整体で食っていけないとしても、手に職を付けられるから、どう?やってみない?と言われ、家から通える所でしたし、そうする事にしました。

SとYには、僕が実家に帰れば、彼らとはちょっと遠くなってしまうので、「すまんけど、整体の学校を出て、どこかの治療院で働けるようになったら絶対一緒にバンドをするから、ちょっと待ってて欲しい」、と言い、バンド活動は休止しました。

左官の仕事は、半年ほどするうちにだいぶ慣れ、親方は高齢に加えて糖尿病があったので、「普通なら小僧さんとして何年も修行しなけりゃならないんだけど、あんたには早く仕事をしてもらえるようにするのが俺の仕事だから」、と、手取り足取り教えてもらったお蔭で、1年ほどしたら、簡単な仕事なら一人であちこち行けるようになりました。

今はどうか知りませんが、当時は左官業には若い人がほとんどいなくて、親方の所に仕事がない日でも、親方の知り合いなどからこっちに来てくれ、とか、うちの会社に来ない?とか、引っ張りだこでした。

仕事は体力を使いますが、お弁当を食べて昼寝し、暗くなったら終わると言った感じで、期限にさえ間に合えば、かなり気楽な感じでした。

たいてい土、日、祝日は休みでしたし、外の場合雨が降ったら休みでしたし、休んでばかりいると給料がその分ないのが玉に傷でしたが、これも結構いいよな、なんて思ってました。ただ、母親は、大学を出て左官?なんて言ってましたが、いつかは整体師になるという予定でしたし、家にいれば両親にとってもなにかと都合もいいということで、まあ、のんびりと過ごしていました。

こうして入学してから1年半ほど経ったら、基礎コースを終了しました。中国への研修旅行なんてのにも行き、次に、開業実践コースには入る予定だったんですが、ここで問題が起きたわけです。

開業実践コースに入るには、50万円が必要でした。お金はありましたが、僕としては、整体学校で知り合った人で、すでに開業してる人とか、学校を出た人ですでに開業してる人の助手としてもう働きたいと思ってたので、そういう人達にあたったりしてましたが、家から通うには遠いところばかりでしたし、どこかでアパートを借りると言うのも経済的に難しかったですし、住みこみが出来る所は無かったしで、もたもたしているうちに、開業実践コースに入るためのお金が2倍に値上がりしたんです。

100万!・・・いきなり2倍かよ?と思いました。

100万円は当時持ってませんでした。また、仮にそれを持っていて払ったとしても、自分で開業するにはやはりお金がかかります。…また、当たり前の事ですが開業してもいつもお客さんが来るとは限りません。

少し様子を見よう、と、もう学校に行ってもしょうがないので、とりあえず左官の仕事をしてました。

ところが、時代はバブル崩壊の頃。左官の仕事がめっきり減ってしまい、知り合いの建築会社で土木作業員としてアルバイトしたりしなければならなくなりました。

・・・俺って…

・・・ただよいの日々の中、またもや転職を考えなければならなくなりました。そしてこの回顧録っぽいものも、ついに終章を迎えるわけです。

2、「歌との再会」

なかなか思うようにはいかんもんやなぁ…などと思いながら、こういうことをしていたんじゃいつまでたってもどもならんと思い、就職雑誌をめくる日々が続いていましたが、そんな秋も終わりの頃、京都にいる父方の祖母が亡くなりました。

葬儀に行ったとき、祖母が、僕が大学生の時に亡くなった祖父とともにお世話になり、かつ、生涯をかけて発展に寄与したある団体の人達が多数来てました。

医者であった祖父は、戦前は満州で大病院の院長をしてましたが、終戦後引き上げてきてからは、いくつかの国立病院などからの誘いを断って、その団体からの頼みを受け、所得の低い人達の診療をして、お金とはほとんど縁のない暮らしをし、生涯を終えました。

それで、葬儀では、その団体の方々から、「君のおじいさんはまるで神様みたいな人だったよ」と口々言われたわけです。

僕は、祖父の家が僕の家から遠い事もあって、年に一度くらいは会ってましたが、若い頃の話しなどの詳しい事を聞いた事など一度もなかったわけです。父からも詳しく祖父や祖母の事を聞いた事がありませんでしたので、おじいちゃんて、そういう人だったのか、とあらためて知ったわけです。

そんな話しを聞いているうちに、「断言児君、就職を考えているんなら、私達の所で働かないですか?…おじいさんやおばあさんの意志を継ぐっていうことにもなるでしょうし。」などと言われたわけです。

その団体の活動は、医療活動、日本文化の振興や海外交流、有機農業の普及、などなど多岐にわたっていて、面白そうではありましたが、僕ももうその時30才でしたから、もし入るとなれば、一生の仕事というつもりでなくてはいけないと思い、2~3日、見せていてだいていいですか?と言い、そこの雰囲気を自分なりに調べてみたわけです。

…で、決めました。おじいちゃんの意志を継ぐ…って言うのも大きかったですが、そこには、僕の居場所がありそうだ、と確信したわけです。

実際にそこに入るのは、今やっている左官の仕事をきちんと終えたり、身辺整理をしたりしなければならなかったので、3ヶ月後、ということになりました。

実家に戻り、SとYに、すまんけど、年が明けてしばらくしたら京都に行く事になったと告げました。

Sは、「お前の人生だもん、お前がそれでいいならそれでいいのさ」と言い、Yは、「淋しくなりますけど・・・でも、音楽は続けるんでしょう?」と言うので、「うん、一応、自称だけど、シンガーソングライターだからな」と答え、それぞれちょっとづつ歌を作っては行こうな、と話しました。

するとSが、「実はよぉ、俺、来年の6月にさぁ、結婚することにしたんや」と言うわけです。

相手は、僕らが大学4年生になった時に新入生としてサークルに入って来てたT子で、2人は、学生時代からずっと付き合っていました。

「そうか!そりゃめでたいじゃん。おめでとう!」と心から思いました。以前、S達が別れそうになった時、僕が間に入って仲直りさせたことがあったので、ほんとに良かったな、と感慨が深かったわけです。

帰り道、車の中で、僕の道が新たに開け、また、Sも、彼の人生に新しい局面を迎えたことを考えているうちに、ふっと曲が浮かんで来ました。

僕の場合、曲と詞が同時に出てくるんですが、運転しながら歌を作り、って言うか、自然に出てきて、それを忘れないように家に帰ってすぐに録音、後からちょちょっと手直しして完成しました。曲が頭に浮かんでから完成するまでに30分くらいかかり、すごい「安産」と言う感じでした。

さっそくYに電話をして、Sの結婚を祝って今歌を作ったから、披露宴ででも歌おうと思うけど、手伝って欲しい、と言い、練習の日時を決めました。

で、Yとの練習の日。なぜかSもいたわけです。

「なんでお前がおるん?」と言うと、Sは、「いや、Yに聞いてさ、なんか俺のために歌を作ってくれたそうで…」と言い、はよ聞きたくなって…と言うわけです。

「ダメさ、披露宴の時に歌うんだから」と言うと、「実はさ、Iが俺の結婚の前の週に結婚するんだって」と言うわけです。

Iと言うのは、僕らのサークルの一つ後輩で、僕の所にも結婚することになりましたという電話がありました。

「うん、知ってる。なんや、ハワイで挙式するとかって言っとったな。」というと、「そうなんや。だから、披露宴とか無いわけで…で、Iのために俺らでお祝いのテープでも作ってやりたいと思い、お前の所に電話したらお前、いなかったんで、Yにかけたら、Yが、断言児と一緒に俺のためのお祝いの歌を練習するなんて言うもんで、来たわけよ。で、断言児の歌、Iに贈るテープの中に入れるってのはどうかなって思って…」と言うわけです。

「ふ~ん、そういうことか。そやな、俺ももうすぐ京都に行かなきゃならないし・・・せっかくだからお前らときちんとした音を作って録音した方がいいかもな」と言い、ま、こんな歌やけど、とSとYに歌って聞かせて見たところ、Yは、「いいですね、それ、是非録音しましょう」と言い、Sは、「今までの歌ん中で一番良いんじゃない?へぇ、俺のためにね…ありがとう」と言い、Yが持っている8チャンネルのテープレコーダーで録音することになりました。

こうして僕は、Iに贈るテープのオープニングの歌をもう1曲作り、SとYも二曲ずつ作曲して、他にIとの想い出を語るコーナーとか、既成の歌のパロディーとかを入れた1時間くらいのテープを作ったわけです。

テープが完成した頃、僕はもう京都に行かなければならない頃になっていました。

そんな時、偶然に帰省していた高校時代の友人のTから電話があり、会うことになりました。

Tは、「そうか、お前、京都に行くんか。…お前が決めたことだもん、頑張れよな」と言い、「俺はよ、今、電気自動車について研究しとるんや。」と言うわけです。

「電気自動車だってさぁ、電力を作る段階で完全に無公害と言うわけじゃないんだけど、ガソリンや軽油を燃料としている今の車に比べたら、環境に対してはうんとましなわけよ。それで、俺はそういうエコカーを日本中に普及したいと思っとるわけや」と言うわけです。

僕は、そうか、Tの奴、相変わらず何やかやとやっとるてわけやな…と嬉しく思い、「お互い、がんばろっけぇ」と言いました。

こうして、僕は京都に旅立ち、新たな職場に入りました。

やがて6月。Sの結婚式の前日実家に帰り、Yと軽く打合せをして翌日の本番に備えました。

当日はいよいよSの結婚式。同級生や先輩、後輩などもたくさん来ていて、ちょっとした同窓会と言った感じでした。

スピーチやカラオケが続き、やがて、僕とYが歌う番になりました。

僕はピアノの前に座り、ちょっとだけSとT子に挨拶をしてから歌いました。

歌っている最中、僕の全存在がその歌を歌っているという感じでした。

ああ、この感じ、とってもいいな、と思っているうちに歌い終わり、席に戻ったんですが、この感覚はなんだろう?と思いました。

思えば、はじめて具体的な人のために作った歌でした。はじめて、具体的な人のために歌う歌でした。

今まで、人に認められることを願って曲を作ってきたし、演奏をしてきてました。そして、ちょっと誉められると喜び、思い通りに認められないとわかると落ち込んできました。

幼い頃、テレビから流れてくる歌や学校で習う歌を口ずさむ時、人が聞くとか聞かないとかに関係無く、ただ歌うだけで楽しかったわけです。

高校の頃、松山千春やチューリップに夢中になっていた時でも、曲や詞が心を激しく揺さぶる中、それに浸る喜びを感じていました。

いつかあんなふうな音楽を僕も作り出したい…と思い、大学に入った頃から夢中で音楽に没頭しましたが、バンドの練習をすることによって、僕は人間関係を育んで行ったし、この世での存在感や、責任感といったものを感じたり培ったりしてきましたし、音楽をすることによって得たものは非常に大きかったわけです。

でも、純粋に音楽と僕の関係を言うなら、音楽は、僕にとって、僕の周りの社会と結びつく「道具」だったわけです。

…そういう関係がいけなかったと言うわけではありません。そういう関係は、僕にとっては必要だったからです。

ただ、僕は、自分の作ったオリジナルの曲を演奏し歌う時、音楽そのものに成りきることがずっと出来ないでいたと感じていました。コピーをする時は違ってました。人のバンドを手伝う時も没頭できました。しかし、自分の作った曲をやる時、その曲そのものに自分の心が成りきれていないとずっと感じて来ました。

僕はそれを、コピーは完成品だからあれこれ考えずに出来るからで、自分の作った歌をやる場合は、うまく歌えるだろうか?とか、これ、みんながいいって言ってくれるだろうか?とか、そういうことを思ってしまうからだとずっと思っていました。だから、自信を持って歌えばもっとうまく、僕自身の音楽そのものになって歌えるはずだ、と思っていたわけです。うまく出来ないのは、僕に強烈な自信がないんだ、と思っていたわけです。

しかし、実際はそういうことではなくって、というか、そういうこともあったかもしれませんが、それ以上に、僕が歌いかけてる人って、一体誰?ということが一番の原因だったとわかったわけです。

僕が、それまでに作った歌で、歌いかけていた人…それは、具体的な存在ではなく、仮想の相手でした。…それはつまり、実に、僕自身だったんだと気がつきました。

失恋を慰める歌も、元気になってほしいという歌も、もっと人生を楽しもうよ、という歌も、自分自身のある部分に対して歌っていたわけで、自分が自分に言うんですもん、「でもさ」、とか、「それ、ちょっと違うよね」なんて言う反論も心のどこかあったはずで、自分で作った歌にもかかわらず、今一つ僕の心は歌に没頭できなかったわけです。

しかし、Sという具体的な人物に祝福をしたい、という気持ちで作った歌は、僕の心の全てを動員して歌ったという感じで、僕は歌になりきっていました。

その歌が、人にどう思われるかなんて、全く気になりませんでした。また、Sが喜んでくれたらそれでいい、という思いで作った歌でしたが、歌ってる時にはSが喜んでるだろうか、とも思わず、ただSに僕の気持ちを伝えたい、ということを思っていました。・・・というか、その思いが歌になってたわけです。

こうして、歌い終わった後、僕は、まさに今歌を歌ってきた、音楽に触れてきた、という心地よい気分になり、何か、とっても嬉しい気持ちになりました。

歌が、僕の所に戻ってきた・・・そんな感じでした。

大学で組んでたバンドでずっとドラムをたたいていたM子が僕の所にやってきて、「断言児さん、すごく良かったです。…なんか、私の知らないうちに一皮むけたみたい…」と言いました。

「ペロン!」と僕は答えましたが、…実際そうだったかもしれません。

こうして、二次会、三次会…と過ごし、すっきりした感じで京都に戻りました。

3、「年輪、そして、いつも心はミュージシャン!」

Sの結婚式が終わり、京都での生活にも慣れ、あっという間に2~3年が経ち、僕は32才になっていました。2~3年も経つと、けっこう親しい友達が出来たり、いろんな人間関係が出来てくるもんでして・・・で、僕は同じ課の人にふられてしまったわけです。

失恋でちょっとクシュンとなってる時に、ブラジルにある事務所に人を送らないといけない・・・という話しを耳にしたわけです。

南米ブラジル・・・かつて僕の母親がまだ少女だった頃、「ブラジルのカフェの木にはお金が成る!」という宣伝を目にして、移民で行きたいと強く思った、と言うことを聞いたことがありましたし、車の組立工場で働いていた時にはブラジル人達といつも接していましたので、なんとなく親近感がありました。

それに失恋の後でしたから、「日本は狭すぎる、よし、ブラジルにでも行ってやる!」と、異常な弾みもつき、(って、ほんとは職場で彼女に会うのが辛かったってことですけど)・・・で、詳しく話しを聞きたいと上司に申し出たわけです。

すると上司は、「ええ?ブラジルって・・・そりゃ、そういう話しはあるけどさ・・・断言児君、本気なの?」と言い、とにかくも上の人に取り次いでくれました。

その結果、次の人事異動では、ブラジルの事務所に行っても困らないようにと、全般的な業務を覚えるため、直接事業を企画運営する部署に異動したわけです。

そこで1年ほどが過ぎ、そこでの仕事にも慣れた頃、別の部署の女性から「お話しがあるんですが、一度会ってくれませんか」と言われたわけです。

彼女の部署は、僕の部署がある建物とは別の建物だったことから、あまり接点が無かったわけですが、時々若いもん同士で映画に行ったり、海に行ったりするといったようなレクレーションの企画があって、そんな時に、若くは無いけど独身者と言う事で僕も入れてもらってたんで、ちょっとくらいは話しをした事があったわけです。

で、なんの話し?と思いながらも会ったわけです。

彼女「ブラジルに行くってほんとですか?」

僕「うん」

彼女「いつ行くんですか?」

僕「半年後」

彼女「どのくらいですか?」

僕「10年の予定」

彼女「10年!・・・むこうで結婚するんですか?」

僕「結婚?… 別になんにも考えてないけど、そうなるかもしれん」

彼女「今、誰とも付き合ってないんですよね?」

僕「うん」

彼女「あの、映画とか、いっしょに見に行ってくれません?」

僕「はあ? それはいいけど、俺は恋愛映画とかは苦手よ。ジャッキーチェーンとかのアクションものとか、スターウォーズとかのSFものとか、寅さんみたいな人情ものとか、まあ、要するに、映画ってのは…」と映画の話しをひとしきりすると…

彼女「あの、映画もいいですけど、嵐山とかにも行きません?」

僕「そう言えば、俺、京都にいるのにまだいったこと無いな・・・って、嵐山だけじゃなくって、金閣寺とかの有名な所にもまだ行ってないわ。いいよ、ブラジルに行く前に見ときたいし…」

彼女「じゃあ、今度の日曜日は嵐山に行きましょうよ」

と言う事になり、さりげなく彼女との第1回目のデートに行ったわけです。

僕としては、ブラジルに行く前にめんどっちい人間関係は作りたくないな、などと思いつつ、最初は努めてぶっきらぼうにしてたんですが、ついつい、明るくさっぱりとした気性で、7つ年下なのに姉御肌と言った感じの彼女と会う事が楽しくなり、5、6回デートをしたわけです。

で、僕のためというより、まだ若い彼女のためにそろそろけじめをつけんと、と思い、断られるつもりで、「俺、貯金無いし、ブラジル行くし、実家も裕福じゃないし、俺自身自由気ままでいいかげんだし、・・・苦労が多いと思うから君を幸せにするとは約束できんけど、それでいいなら結婚してくれん?」と言うと、しばらく考えさせて欲しいと言われたわけです。

こりゃあかんな、でもこれでいい、と思っていたところ、3日後、そうする、との返事。

で、ブラジルに行く1ヶ月前に婚約したわけです。ブラジルで変な虫がつかないようにとかって言う事で…

で、その時はビザの関係で半年でしたが、僕は一人でブラジルに渡ったわけです。

ブラジルに渡り3ヶ月ほどすると、なにやら無性にギターが弾きたくなり、購入しました。毎晩となりのバール(日本でいったら居酒屋って感じですね)から聞こえてくる、ブラジルの流行りの歌のうちの1曲を覚えて職場の宴会の時に披露したところ、おばちゃんをはじめみんなからすごいすごいと言われ、それが癖になってしょっちゅうこちらでも歌を歌うようになったわけです。

半年経って1時帰国し、結婚。その1年後に夫婦でブラジルに来て、もう4年経ちますが、その間、僕は二児の父親になっていました。

さて、今から1年前の事です。ふと、高校時代の友人であるTの事が気になって、あいつ、もしかしたらホームページでも作ってるかも、と思い、Tの名前で検索したところ、ホームページはありませんでしたが、いくつか電気自動車やエコカーに関する文章を書いていることや、二冊の本を出してる事がわかりました。

さっそく日本からそのうちの一冊、「日本充電3000キロ」という本を取り寄せたところ、Tらしい、元気で人情味あふれる、わくわくするような文章に触れる事が出来て嬉しくなり、彼の実家に問い合せて彼が今住んでいるところの電話番号を聞き、久しぶりに話しました。

彼は僕とほぼ同じ時期に結婚して、やはり父親になっていました。フリーのライターとして忙しい日々を送ってるそうですが、今でも時折メールのやり取りをしています。

学生時代バンドをいっしょにやってたSは相変わらず農協の職員で、一児の父親になっていて、やはりバンド仲間だったYも3年前に結婚し、やはり一児の父親ですが、今再就職活動の真っ最中と言う事で大変らしいです。

時々彼らとやり取りするメールや電話で、帰国したらまたバンドしたいなぁ、なんて言いあってます。

その時のために、お互い作曲をしとこうぜ、と、時々作曲をしたり、ギターの練習をしてるわけです。…ほんとに彼らとバンドを組むかどうかはわかりません。なんてったって社会人ですもん、いろいろありますもんね。…でも、なんとなく実現できるかも、という楽しみはずっと持っているわけです。

お互いもう中年ですから、バンドと言ったって学生時代のようなわけにはいきませんが、年輪を経た味が出せるかも、と思うと、想像するだけで楽しいわけです。

また、このシリーズの冒頭に書きましたように、林間学校で子供達の歌を演奏したりなど、なんだかんだとしょっちゅうギターやピアノを弾いて歌ってるわけですが、思えば、松山千春さんやチューリップに感動して以来23年くらい経ちますが、この間、常に僕のそばには音楽があり、音楽が、僕にエネルギーを与えてくれ、いろいろな体験をさせてくれました。音楽は、僕にとって先生であり、恩人であり、友人であったわけです。

この世に音楽があって、本当に良かった…そう思うわけです。

きっとこの先も、たぶん死ぬまで、音楽は僕のそばにいてくれると思います。

だから、いつも、どんな所にいても、僕の心はミュージシャン!なわけです。


・・・・・・・『心はミュージシャン!』「完」

というわけで、長い間『心はミュージシャン!』をお読みくださってありがとうございました。単なる思い出話しだったので、あんまり面白くも無かったと思いますが、僕にとっては、この半生をたどることは、楽しく、そして意味深いものでした。・・・たまには半生を振り返って見るっていうのも、良いもんだと思います。明日のために、ね。

お付き合いくださって、本当にありがとうございました。


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